2011年2月20日日曜日

北方領土問題・・・・を学ぶ。

日本人だから、漠然と北方領土4島の返還はいつの日かなされるべきだと考えている。

でも、なぜ、その日が一向にこないのだろう?。


ここのところ日露関係が悪化していると感じられる報道が目につく。

日露外相会談が先日行われたが、残念ながらその進展はまたも望めなかった。
とんがった空気の日ロ外相会談 北方領土問題、進展なし 前原外務大臣のロシア訪問(日露外相会談:概要)

そして、日本と領土問題を話し合わないロシア外務省から
日本との領土交渉継続拒否=「重大な食い違いあり論外」-ロシア外務省

との展開である。昨年暮れ、メドベージェフ大統領が北方領土を訪れたあたりから、日露関係がぎくしゃくした感じが強くなってきている。9月に大統領が北方領土を訪問するという打診を受けていたが、11月1日に実行された。この訪問情報が日本に伝えられなかったということで、大使は更迭されている。
メドベージェフ露大統領、「必ず北方領土を訪問する」
河野駐露大使:事実上の更迭へ 情報収集能力を問題視
ロシア大統領、北方領土を訪問 元首で初
アジアを読む 「メドベージェフ大統領北方領土訪問」


その後、北方領土の日2月7日に、管総理が「許しがたい暴挙」と発言したことが、ロシア側の反発を招いているようだ。
北方領土:ロシア大統領の訪問 菅首相「許しがたい暴挙」
【北方領土】「暴挙」発言、政治パフォーマンスに終わるのか?[桜H23/2/9]

そして、冒頭に記載した展開となっている。つまり、2月11日の日ロ外相会談では進展なし、2月18日にはロシアから領土問題交渉継続拒否の表明という展開だ。


なぜ今、突然関係が悪化するのだろう?という疑問が浮かぶが、この展開から見ると、挑発的な言動が関係を硬直化させる原因となっているようにも見える。
自国の民が住んでいる土地に、閣僚が視察して状況を見るということは、一種自然だと思うのだが、領土権については、双方の考え方に違いがあり、その考え方をすり合わせできないところに問題がある。

双方の主張に隔たりがある場合、一方的に相手を非難すれば当然関係は悪化することは想像に難くない。


日本の領土でありながら、ソ連が実効支配をしている島・・・・。という理解は、日本人のものであり、ロシアはそう感じていない。


これが、日露関係における北方領土問題の相互の理解の原点だという。


北方領土問題について、テレビで特集していたので、ちょっと理解を深めるためメモしてみよう。

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かつて北方四島には1万7千人が暮らしていた。第二次世界大戦後、ソビエトの占領により島民は島を追われた。

現在、ロシア人が生活をしている。ロシア国の開発、投資により豊かさを享受している。

着々と進むロシアの実効支配。現在、島のあちこちで、ロシア政府による公共工事が行われている。街には、若者や子供が増え、出生率も上がっている。四島の中でも貧しいといわれていた色丹島でも、開発は進み、人々の生活は豊かになっている。

人々は笑顔に満ち、口々にロシアへの(プーチン大統領への)、感謝の言葉を口にする様子をテレビでは伝えていた。



北方領土が占領されてから66年。それ以降ロシアの実効支配が続いた。


実は、ソビエト崩壊後は、北方四島は政治的な援助を得られず、疲弊していった。そこに、人道支援をしたのは日本である。その当時は、住人は、ソ連よりも日本への感謝の念が強かった。それを一変させたのがプーチン大統領。プーチン大統領は、500億円の公共投資を行い、島の生活を豊かにした。

島民達のロシアへの愛国心、プーチン大統領への感謝の念はかつてないほどに高まっている。




北方四島は、太平洋戦争が終わった後の昭和20年8月末、ソビエトによって占領。以来66年、大きな認識の差がある。

戦争に敗れた日本は、連合国との講和条約によって、それまで領有していた千島列島を放棄。
この中に北方四島(択捉島、歯舞島、色丹島、国後島)は含まれていないと主張している。その根拠のひとつが1855年日露通好条約。両国は平和的な話し合いで、択捉島とウルップ島の間に国境線を引いた。こうした経緯から、北方四島は日本固有の領土だと主張。
ロシアは、北方四島は日本が放棄した千島列島に含まれるとして、日本は敗戦とともにその領有権を失い、四島に対するロシアの主権は日本が戦争に負けたことによる現実だと主張している。


戦後いくつかの交渉の場面があったという。


1955年。日ソ共同宣言。平和条約の締結後、色丹、歯舞の二島を返還することががうたわれた。

日ソの交渉の過程で、当時、松本俊一全権が、国からゆだねられた方針は、最初は戦争前の領土の回復を交渉し、それができなければ四島の返還、そして最終的には、二島返還で決着をつけるというものだったようだ。両国とも合意への動きを加速した模様。北方四島に関する内部文書によると、歯舞と色丹から、全ての住民を転出し、廃村を決定し、歯舞と色丹を無人島にしようとしていたという。

しかし、東西冷戦の最中、二国の接近を危惧したアメリカから、待ったがかかった。ダイス国務長官が、二島返還で決着するなら、アメリカは沖縄を自国の領土にすると示唆した。これにより、国内では、吉田茂元総理大臣の多くの政治家が、二島返還での決着に反対した。
結局、日ソは、領土問題の解決を棚上げし、日ソ共同宣言に署名。歯舞・色丹については、平和条約が締結されたのちに日本に引き渡すとだけ書かれた。


4年後、新たな日米安保条約が結ばれたことにソビエトは反発。二島ひきわたすという日ソ共同宣言の合意を無視するようになった。

これに対して、日本政府は4島一括での返還という原則を掲げるようになった。



その後交渉は動かなくなった。




89年に、ベルリンの壁が崩壊。91年にはソビエトが崩壊し、東西冷戦は終わった。

90年代、ロシアとの間で領土交渉が大きく動き始め、島がもっとも日本に近づいたといわれたが、結果として、チャンスを生かすことができなかった。

90年代後半、丹波実氏(外務審議官97-99)と東郷和彦(欧亜局長99-01)の対立する意見を持つ二人が北方領土の政策に大きな影響を及ぼしていたという。
四島一括での解決にこだわった前者の考え方と、ロシアが実効支配している現実を見据えてまずは二島返還を現実化させて交渉すべきと主張した後者の考え方との間で揺れ動いたらしい。


エリツィン大統領と橋本総理時代に、主導した丹波実氏の案は、ウルップ島と択捉島の間に国境線を敷いて、日本の主権を確認し、当面の施政権をロシアに認めるという解決案。北方四島は日ソ中立条約を無視して参戦したソビエトによって、終戦後の8月23日以降に占領され、住人は退去させられたとして、四島一括での原則にこだわった。

当時、ソビエト崩壊後、悪化していた国内の経済情勢に対して経済協力を求めるエリツィン大統領の思惑もあり、橋本総理大臣がエリツィン大統領側に北方領土の返還を求め、一度は交渉のテーブルに乗った。

が、一方でソビエト崩壊後、給料や年金の不払いがあいつぎ、政府への不満が相次いでいたため、四島一括での返還を決めれば、政権が崩壊すると最終的には判断したロシアは、提案を事実上拒否。



冷戦後の交渉は、4島一括での返還という原則により頓挫した。


その後、日ソ共同宣言を土台に交渉を始めるという動きがでる。
並行協議案。日ソ共同宣言で決まっているとして、返還の具体的な方法を交渉。その後国後・択捉の返還交渉をするというものだった。東郷和彦氏の立場だ。



当時、プーチン大統領は、踏み込んだ発言。
2001年。日本の経済支援に期待を抱いており。日ソ共同宣言を批准していることを前提に、日本と話し合う用意があると示唆。


が、その動きに対して日本国内で反発が巻き起こる。四島一括で協議すべきだというものだ。東郷氏も外務省を免職。


日本側の混乱にロシアは交渉の意欲を失ったという。



2010年、ロシアの閣僚が、北方領土を訪れるなど、90年代に比べて、北方領土に関する交渉はより困難な状況をみせている。

ロシアは国力を回復させ、中国や韓国の台頭など、協力を求める国の選択肢も広がっている。
もはや日本からの経済協力への魅力は薄れている。



さて、ここで、ロシアが意固地になって領土問題をとらえているのかというとそういうものでもないらしい。他国との間では、プーチン大統領が国境線の確定で合意している。国境地帯での資源開発といった経済的な理由から、また、紛争の種をとるという安全保障上の問題から、ノルウェー、ラトビア、カザフスタン、中国などと国境の問題を解決していった。中国とは、ロシアが実効支配していた土地の一部を引き渡す形で確定した。つまり、現実的で合理的な解決策に応じているわけだ。

ロシアは、特に大国化する中国と手を結ぶという判断をし、アジア地域の安定を手に入れている。 2004年以降両国の貿易は5倍にも膨れている。豊富な天然資源の輸出先として中国に期待。国境付近には、中国からの投資がおしよせている。中国、韓国からの経済協力に期待をかけている。


ロシアは主張の隔たりの少ない分野から、協力の協議を進めたいとしており、日本の保有する省エネ技術などに期待している模様。

一方で、領土問題については交渉拒否を表明。



日本国内で二島だ四島だとケンカしている間に、確実に現在住んでいる住民を豊かにしたロシアの実績は積み重なっている。

どこか「漁夫の利」という話に見えてならない。


外交の難しさも理解できるが、平行線のまま、実効支配が進んでいく現実に対して、無力なんだなあというもう一つの現実も感じさせられる話だ。日本は、人々も土地も豊かにしていないが、ロシアは確実に実績を積み重ねている。一方で、ソ連崩壊時の混乱の時には人道支援を行ったという、貢献を主張してみることも大事だろう。


この経緯を見ていると、いきなり暴挙呼ばわりすることが、直接解決策に結びつくとも思われない。国内の民族意識を高めて、国内の政治基盤を固めたいという政治家の心情なのだろう。
民族意識の高揚を外交に結びつけると、戦争へと導かれている歴史がある。
また、交渉相手の心情を逆なでして交渉の機会を逸することが、長期的な硬直を招くのではないかと心配する。

今の状態では、領海を巡る問題にも解決がついてない状態で、その区域での開発には常に紛争がついてまわることとなる。


相互の安全、持続的な経済発展を見据えて、丁寧に交渉をしてほしいと思う。


外務省 日露関係

2011年2月12日土曜日

エジプトのムバラク政権が崩壊、軍が権力を掌握

エジプトのムバラク政権が退陣したようだ。

このところ、メディアでも盛んに取り上げられていたが、ひとつの転換点を迎えた。

チュニジアでのジャスミン革命に触発された若者が中心になって、ツイッターなどでデモを呼びかけた社会運動。1月25日からわずか2週間強で政権を追い込んでいる。

30年続いた独裁政権に対して、蓄積した市民の不満が噴出したようだ。

そして、この30年の政治は、アメリカとの関係を深化させて支えてきたものだ。今後の歴史的な大きな変換点となるという見方には、納得させられるものがある。そして、アメリカで成長したIT文化により急速に進展したのは興味深い。


ここ数日で様々な、メディアで聞きかじった歴史を連ねてみよう。

およそ、アラブとユダヤ、そしてアメリカの関係で物語られることが多い。そして、ユダヤ人により建国されたイスラエルと関連付けると、その展開と内包する問題がわかりやすいようだ。



自分たちの国を持たなかったユダヤ人が世界中から集まり、自らの国を作ったのがイスラエル。1948年の建国だ。この前後でかなり激しく民族間(宗教間?)闘争があったようだが、この土地は、もともとは、ユダヤもアラブも共存共栄を目指していたようである。この地域では民族的にはルーツを等しくしながらも、ユダヤ教を持てばユダヤ人といわれるらしい。そのため、特別に争うほどの民族的対立のエネルギーは生まれないはずだが、一部のユダヤあるいはアラブの原理主義者などがさかんに争点をフォーカスして争いを拡大しているようにも見える。また、世界からのユダヤ人の入植が急速だったことが、国内の価値観を多様化させ、先住民族と同胞のアラブ諸国の反感を買い、紛争が起こっている模様だ。

このような展開から、もともとアラブ人たちが住んでいた土地とする、エジプトをはじめとするアラブ諸国は、イスラエルと対立。行くたびも戦火を交えることになる。

エジプトは歴史的、地理的、文化的に、アラブの盟主だから動かざるを得なかったらしい。4回戦争している。

1973年第四次中東戦争でエジプトはイスラエルへの奇襲作成を成功させる。サダト大統領がこの奇襲作成を行い、世界を驚かせたが、この作成を指揮し、国民的英雄となったのは空軍司令官ムバラク氏。エジプトの土地を取り返す戦いに華々しい活躍を演じた人物として、国民の意識に刻まれる。

開戦当初はエジプトが勝利するのだが、イスラエルにアメリカが緊急援助し、停戦となる。

そしてアメリカとの協調路線へ舵を切った。180度の政策転換 反米から親米へと変わる。

停戦から5年後、アメリカのキャンプデービッドで元カーター大統領のリードで、和平合意が発表された。

エジプト国民は、イスラエルと戦い続けることを負担と感じていた。一方アメリカに歩み寄ることで、アメリカからの援助を受けることとなり、国民の生活も少しはよくなった。

アメリカ側にもエジプトと関係を深めたいという思惑があった。イスラエルの東に位置するイランの存在。

1979年、アメリカやイスラエルの友好国イランが反欧米主義のイスラム主義国家になった。同年、ソ連のアフガニスタン侵攻が行われた。ソ連の中東進出への防波堤となっていたイランが反米となったことに危機感を抱いた。

エジプトとの関係を深め、イランのかわりにエジプトをアメリカの足場にし、エジプトを使って中東各地に軍隊をおくることになった。

エジプトはアラブの英雄から一転、アラブの裏切り者として孤立。それとともに、急激な路線変更は、国民に戸惑いと反感を与えた。イスラム過激派のエジプト軍兵士によってサダト大統領ら6人暗殺事件がおこったことに象徴される。


そして、副大統領だったムバラクが大統領に就任。就任当時は、国民もメディアも盛んに支持したようだ。

しかし、ムバラク大統領は、秘密警察を使った強権的な手法で、反対勢力を取り締まり、政治基盤を固めていった。エジプトの情報省、アメリカのCIA、イスラムのモサドは、ムバラク体制になって強固になった。

アメリカは、毎年15億ドル以上の資金援助、合同軍事演習の実施を行うなど、ムバラク政権を支えてきた。世界屈指の軍事大国。中東におけるアメリカの代理人としての役を一翼を担うようになった。

東西冷戦が終わった後もエジプトの重要性はかわらない。冷戦終結後も、エジプトは湾岸戦争やイラク戦争で、イラクではなく、アメリカの同盟者としてアメリカを援助。エジプトは、西側諸国からアラブの優等生とみられてきた。

一方で、国内では広がる格差、認められない政治活動への不安が募っていった。

チュニジアでおきた革命の情報がエジプト市民の心に火をつけた。

急速に広がる反政府の動きに、アメリカも態度を変えて、「秩序ある政権移行は、平和的にすぐに行わなければならない。」などの大統領声明をだし、早期退陣を促した。

ムバラク大統領は、イスラム原理主義の政権が誕生しかねないとして、退陣を拒んだ。もちろん、アメリカにとっても、イスラム原理主義の圧倒的な政権が誕生することは避けたいはずである。

現在エジプト国内では、イスラム原理主義、ムスリム同胞団がもっともしっかりした組織を持っていると考えられている。

いずれにしても、不正腐敗の世を一掃して新しく時代を切り開くには、政治主導者の退陣が必要だと誰しもが考えていたのは間違いない。


新しい時代がスタートしていく。

今後アラブという民族性、アメリカとの関係、民主主義など、様々な思想の中でどのような方向に進んでいくのだろう?。